「無」に連なる意識について  

この Fujii Masami Space の内容のお問い合わせ、

演奏のご依頼、レッスンのお問い合わせなど諸々のご連絡先は

fjm@live.jp  藤井政美 までメールでお気軽に

    

ひとつ前の記事にはいろいろクダクダと書いていますが、

基本は目の前のことや、音楽そのものに

真剣に、でも適当に、とりかかっている、という程度のこと

を書いています。。

   

よく仕事とは、とか人生とは、とか

意味無く深刻に定義つけしようとする方々が

いらっしゃって、

そういう方々はとても真剣に考えるのでしょうけれど、

そのポイントは私にとってもどうでもよくて、

思う対象にすらならないというか、

生きている時点でそんなことは考慮もしないというか、

日常なんてものは(自分には)くだらないものですし、

自分にはなにごとも「所詮」という範囲をでません。

   

所詮、ブログでこんなことを書いていても、

実際にひとまえで何をするか、あるいは

したからといって、それはやはり「所詮」でしか

無いという諦観があります。

   

といって、別にそれがシニカルというわけでも無いのですが・・・

  

極めて楽観的にそれを感じている、

こういうのは書くのは難しいですし、

書いたからと言ってこれまた何の意味も無いことです。

   

でも、「あなたにとって音楽とは!?」とか

「仕事とは!?」とか

そういうあんまり訊かれたくないことを訊かれたりするたびに

こたえに窮してしまうことを説明したいのですが、

上手くいきません・・・

   

以前、自分にとっての音楽、というものを

漢字一文字であらわせ、という難題には

「無」と答えましたが、

正直、あんまり良いこたえとも思っていません・・・

  

こんなの別に禅問答にしたいわけでもなく、

大人な「夢」とかそういうので答えたほうが良いのは

わかりながら、ウソを平気で言えるような人間には

なれませんし(そう思う方は本気なので、それは

人によってそれぞれの感性ですので、念のため)、

本当に「何も無い」としかおもい様がない・・・ことを

あらためて実感します。

   

ちょっと話は別の視点になりますが、

音楽の背景には物理的な整合性が存在している、

というのはとても自明のことで、音楽家を志すひとにとっては

あまりにも当たり前過ぎで、それをことさらひと様に

強調することは却って恥ずかしいので言わないものです。

   

そして、先程の「無」なのですが、その整合性というか、

ある種の理論というか、音と言う音響や原理というものは

下敷きとして確たる存在をしている前提で、

その上に構築された音楽そのものは、

その論理をまるで意識させない存在に

なっている、と考えています。

   

それが私には「無」を意識させるわけですし、

土台にあるものが見えないことは

一つの必要不可欠な技量だと思います。

   

それを享受する側は知る必要は無いことですし、

知ったからといって、別に理解が深まるわけでもありません。

つまりは意味は異なりますけれど「無」でいいわけです。

(でも、いやしくも音楽に携わるひとがこういう背景を

知らないのはこれまた不勉強としか言いようが無いことです。

難しいですけれど、そういうものです。)   

   

また、別のことがらなのですが、

音楽には著作権というものがあって、法的権利として

しっかりと保護されています。

これはこれでとても現在の社会機構ではとても大切なことがら

ですので、きちんとしていく必要はあるでしょう。

    

で、あくまで個人の感覚として、なのですが、

私には、表現ごとは表現した人間が所有している

ように見えていますけれど、それが人々に受け入れられることを

目指しているわけで、その受け入れられる、ということは

共有意識を目指していると思っています。

  

生み出されたものはそれを受け取った人々と、

等しく分かち合うものだとおもっています。

空気や光、時間のような感覚なので、これも浮遊して

限りなく「無」に向かっています。

   

皆で分かち合う、という感覚を持ちたい、と

いうことは全ての人々の財産であることを

意図しているように思っていて、それは

所有というよりは共有で、しかも無限の価値と

無限の広がりを志向するがゆえに、「無」に寄って行くのです。

   

存在はしても、「無」に向かっているような感じとも

いえましょうか・・・・

   

さすがに日々の糧を手に入れる、という経済システムに

依存しているので、なにがしかのお金に代えたいと

工夫はしておりますので、何でも「無」料とはいかないのが

心苦しいところですけれど、

本心はその方向にいます。

   

ですから、他人様の権利はそれと守ることを

理解したうえで、自分自身は、著作権はフリーだと

したい立場です。

  

でも、難しいのはそれをつかって第三者が

勝手に利益を一人占めしようとすることに対しては

反対をしておりますし、完全に皆がフリーならば良いのですが、

そういうシステムの構築は大変に難しいものです。

  

ひとの善意を前提に生きている人間は

悪意の存在には鈍感なわけで・・・・

何事も、リスクマネジメントは難しいですね。

   

と、こうしてフリーじゃなんじゃ、と書いてはいますが、

実際のところ、他人の役に立つため、

ひと様のために、とやっていることでは

無かったりします。

   

そして、自分のためでも無い・・・・

    

この感覚は難しいのですが、何の為でもなく、

ただその行為そのものでしか無い、

そこにいろいろベタベタと理屈を並べても

すべてはあるできごとのただの一面を現して

いるに過ぎないのです。

   

こういうところにも「所詮」とか「無」という

自分の感覚が行き着いているのですが、

あくまで自分自身の考えであって、

違う方は山ほどいらっしゃいます。

   

それぞれに自分の感覚があるように、

それが合う合わないを作りだすのですが、

仕方が無いことです。

   

合わない同士も音楽ができますし、

合うからといって音楽がフィットするわけでもない。

  

ただの意識の違いです。

   

いろいろ言わずもがななのですが、

たまに外からその理由を問われるので、

こうして開陳してみるわけですが、

ヤヤコシイですね~

    

こういうのは書く方もバカバカしいとは思っておりますので、

大変に申し訳ないです。

    

fujiimasami について

saxophonist . play jazz , blues, funk & classical music. livin' hiroshima,japan.
カテゴリー: 雑感 パーマリンク

「無」に連なる意識について   への2件のフィードバック

  1. きんちゃん より:

    共有化システムに関して、このようなものがあります。
    「クリエイティブ・コモンズ」という団体の概念です。

    概念を示す動画↓
    [audio src="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Reticulum_Rex_(in_Japanese)_-_Creative_Commons..ogg" /]

    クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

    クリエイティブ・コモンズ・ライセンスとは

    著作権を全て留保する “All rights reserved” と、いわゆるパブリックドメインである “No rights reserved” の中間の、 “Some rights reserved” が、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスが規定する領域だそうです。共有やRemixの意思表示をしようとする試みはよいのではないかと思います。Wikipediaの画像等にはCCがよく使われていたりします。ご参考までに。

    • fujiimasami より:

      きんちゃん

      ありがとうございます。

      とても参考になります。この考えの種類もいいです。

      やはり世の中はアタマのいい人がいろいろ考えてくれていますね。

      無知はいけないなぁとおもわされます。

      とはいえ、いちいちこのマークを自分のものにつけるのも面倒ですが、概念がよく理解できました!

コメントを残す